第02話   本間裕介氏の船場町の釣具屋  平成24年10月20日  

 本間祐介氏は酒田中学卒業後、上京し漢学塾二松学舎専門学校(現二松学舎大学)に入学されたが、心悸亢進と云う病(=しんきこうしん・現在の医学では自律神経失調症のひとつとして診断されているらしい)に襲われ、何もする気になれず故郷に帰る。家に帰った氏は、故郷で毎日ぶらぶらと暇にまかせて釣りなどをしているうちに、心悸昂進なる病はどこかに吹っ飛んでしまった。再発しては元も子もないと父と相談し、学校に復学する事を辞め故里で何か仕事をしようかと云う事となった。
 仕事について幾つかの候補にあがったものの一つに釣道具屋があった。子供の頃に叔母に連れて行かれた湯野浜温泉の湯治宿岩本屋の主人は湯野浜温泉ではこの人ありと云われた大層な釣りの名人で、明治の名竿師の丹羽庄右衛門や上林義勝などの名竿を数多く持っていた。そこで祐介氏はその名竿を見たり触らせて貰ったりしていた。また、同い年の佐藤寛一氏(国学院大学卆、後に佐藤寒山の号を持つ鶴岡市出身の著名な刀剣鑑定家、祐介の兄本間順治=刀剣鑑定家は国学院大学の先輩にあたる)に相談したところ、自分の親戚に名竿師と云われている山内善作がおるからと云ってその人物を紹介されたと云う。祐介氏にしたところで父親(敬治)が釣りの盛んな鶴岡出身と云う事もあり、子供のころから釣の心得もある。釣竿の見方に関しても、後に兄程ではないにしろ刀剣の鑑定人となっている人物であり、竿を見る目もまるっきりの素人ではなかった。昭和の初め頃の血気盛んな山内善作氏との出会いで、あらためて庄内竿の見方、造り方等をじっくりと学ぶに良い機会となった。善作と出会うなり二十も歳も違う二人ではあったが、いきなり意気投合してしまう。庄内竿の発展について等の話に盛り上がり、大いに語り合ったと云う。そして帰り際には善作作った釣竿を貰う程の待遇を受けた。 
 ほどなくして酒田の港にほど近い船場町一丁目の西の外れ付近でウナギ割烹として江戸時代創業の有名な玉勘下の角地に釣具屋を開く事となった。と同時に山内善作に竿の作り方をじっくりと学んだ。そこで良い竹藪の選び方、釣竿に適した竹の選定、竿の作り方等々じっくりと教えこまれた。その後竿の鑑定については、一流の鑑定眼を持つに至った氏であった。その為昭和十年頃になると、その評判は評判を呼び氏の店に当時の一流の竿や釣道具が集まってしまった。
 ただ、竿作りにかけては残念ながらついに師である山内善作氏を超えるものは、一本も作る事はかなわなかったと述懐している。と云うのは昭和十八年五月に急に本家の本間光正に呼び出され、自分に赤紙が来たので留守の間本家の仕事を引き継ぎ娘真子を守って欲しい事を頼まれた。その為、氏は急遽釣具屋をたたむ事に相なってしまった。そのご終戦を待たず光正氏は病となり亡くなってしまった。そして娘真子が若くしてその跡を継いだ。終戦後は農地改革で本間家は大打撃を受けた為、後事を託された祐介氏は本間家の立て直しに躍起となった。一介の釣具屋の親父が止む無く経済界に飛び込む事になって、一応の成功を見せた頃には、酒田の財界を代表する人物となっていた。評論家の大宅壮一よれば本間祐介氏を評して人を威圧する鋭い眼光、そのがっちりした骨格は長年の栄枯盛衰を潜り抜けて来た本間家が作り上げた顔そのものだと表現した。
 そんな事もなくただただ平穏で静かに釣具屋の親父として一途に送れるような時代でもあったのなら、本間裕介氏も一角の名竿師として名を遺すような人物となったかも知れなかった筈である。
 残念ながらそんな本間裕介氏の作竿は殆ど残ってはいない。以前小耳にはさんだ情報によれば僅かに小竿が数本あったと云う事を聞いた事がある。「随想庄内竿」の著者根上吾郎氏はその竿を手に取って見ている筈なのだが、そんな彼も亡くなられてから久しい。本間美術館に数本あったその竿は、氏がほんの亡くなられる少し前、竿を矯めるからと云って、自宅に持って帰りそのまま亡くなってしまった。その後美術館には、戻って来てはいないと云う。